2013年04月18日

活動写真弁士

活動写真弁士「あだ名は、《ハイカラ》だったよ」と、優しく笑いながら小学校時代を懐かしく振り返るハイカラさんは、現在92歳。

熱燗トックリを小鉢の横に置き、釜平のカウンターに久々に登場していました。

ハイカラさんと私は、私の歳の分だけのおつき合いです。
ハイカラさんのオクサマがお茶のお師匠さんで、母が習っていたことで小さい頃にはハイカラさんチの茶室で「静かに正座」を教え込まれました。
「上手に待てたね」と、和紙に包まれた小さな茶菓子をご褒美にくれるのですが、「ナンで大人はこんなマズイモノを食べるのか?」と、味気のないボソボソとした食感の「ご褒美には程遠いご褒美」をありがたいキモチでもらっていた記憶はありません。

活動写真弁士「お隣に座ってもイイですか?」
「どぉぞどぉぞ、お父さんは元気にしてますか?」と、大正10年生まれのハイカラさんが、昭和12年生まれを気遣って、昭和39年生まれに話し掛ける口調はとてもお元気そうです。

オフィスの下をステッキを持ってハイカラ帽子をかぶっていつもオシャレに散歩している姿を時々お見かけしていますが、小さい頃のあだ名が《ハイカラ》だったと聞けば疑う余地はありません。

活動写真弁士銀行マンだったと言うハイカラさんは、戦時中も中国で闘う戦闘部隊の後側でその任務を果たしていたと言います。

「チンタオはキレイな町だったよ」と言われても、戦下でのキレイな想い出を想像する事ができない私に、部隊が奥地へ進むに連れ、その素敵な風景の中で行われている事に、若かったハイカラさんは胸を傷めたと言います。

活動写真弁士さらに話しはさかのぼり、幼少時代には「五銭均一」のお店に行ってはソラマメや、焼き芋を「買い食い」するのが楽しみで、ご両親に内緒で1日1銭ずつのお小遣いを貯めて「五銭均一」のお店で「買い食い」しているのが見つかると、「立って食べるなんて恥ずかしい!」とひどく怒られたアトは、お小遣い制度は廃止され、3時のおやつも現物支給となり、家で座って食べる事になったと、私が両親にそうされていたような話しに目を細めます。

活動写真弁士厳格なオウチだったようで、小学校1年生の頃にはポマードをベタベタ頭に塗られ、きっちりシチサンにセットされ、編み上げの靴で登校していたようです。ご本人はおっしゃいませんが、格式の高いオウチの印象です。

編み上げの靴は脱いだり履いたりするのが面倒でしたが、そのスタイルを変えたくないお父さんが、学校と交渉して、校内では編み上げの靴の上からぞうり袋を履かせる事で、1日中、編み上げの靴を脱がずに過ごせる事になったようです。

それでついた【あだ名】が《ハイカラ》で、ご本人も案外気に言っていたと言います。

活動写真弁士今でこそ、公共交通機関や自家用車を使えば30分足らずで到着できる海水浴場も、移動手段のなかった当時、現在の私のオフィスから徒歩で1分ほどの小学校の敷地内にプールがある事を知り、自転車で30分ほどかけて通っていたそうです。

ただ水が溜っているだけのプールなのに、「この町は金持ちだらけなんだ」と思ったそうですが、そのプールでは大きなゲンゴロウと泳いだと言い、それでも病気になったりする事はなかったと思い出しながら自慢げです。

活動写真弁士無声映画(サイレント映画)が主流だった時代で、スクリーンに映し出される無音の活動写真(フィルム)に合わせてその横で、調子を取りながら現在の吹き替えのように喋る「活弁(活動写真弁士)」の話しになると、今はすっかりなくなってしまいましたが、私にも記憶のある映画館街に入り浸っていたエピソードに進みます。
「活弁さん」は日替わりだったらしく、ハイカラさんは「はなやまろうげつ」という弁士がゴヒイキだったようで、男の声は男らしく、女の声は女らしく、抑揚をつけた表現は人間に留まらず、自動車や機関車まで見事に再現してくれたのだそうです。

活動写真弁士私が祖父に連れていってもらった「ゴジラ」や「ガメラ」には音があったと言うと、「お!トーキーの時代か!」と話しが絡み合ってるのかどうかわかりませんが、なぜかふたりで懐かしいキモチになる夜でした。

「楽しい酒だ、いい夜だ」とおっしゃっていただいて、私がお供をしている間も熱燗を何度となく発注していましたが、話しは2周3周するものの、乱れる事もなく、92歳のハイカラさんに励まされているようなキモチになりました。

活動写真弁士それでも何度も同じ話しを聞いているので、「そのアメなめると、口の中が青くなっちゃうんでしょ?」と話のオチを先に言うと、「オー!知ってるかそんなことも!」と新鮮に誉めてくれて、話も少しずつ違う展開になります。

以前「かたりベ」がいなくて残念だなんて投稿しましたが、ハイカラさんからお聞きしたあたたかな話しを、私たちが伝えていけばイインだと思いました。
お帰りの際には、お見送りさせていただきました。

活動写真弁士少し背中も曲り、小さく見えましたが、持つ部分に素敵な彫刻が施されたステッキを片手に、しっかりとした足取りで、振り返る事もなく背中のまんまで手を振りながら「またなぁ。ありがとう。。。」とお帰りになられる姿を、釜平の母さんと少しの間、見ていました。

ブロマイドでも見つかればプレゼントしてあげようと、人気弁士だったと言う「はなやまろうげつ氏」をネットで探してみましたが、残念ながら見つける事はできませんでした。

鮮明な想い出のようなので、「それでいいか。。。」と聞いた想い出をイメージしながら私もその時代を楽しませていただく事にします。

私はステキな仲間に囲まれてシアワセです。          



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この記事へのコメント
タイムスリップしたような感じで読ませて頂きました。
とくに明治,大正生まれの方は、厳格ですね。
今では親族といえども体罰問題で、なんとか相談所
なんていうところに話が持ち込まれそう・・・・・・・・・。
孫の私たちも幼少の頃よく口ごたえをすると、お灸や
ものさしで脅かされたりしました。今では笑い話ですが
その頃は怖くて外に逃げ出したりしました。
その祖母は祖父と共に、大正時代にシンガポールで
生活をしていました。昭和14年ごろ英国船団が目立ち
始めたころ、戦争を予感して帰国したと話していました。
明治生まれとはいえ、厳格で教育熱心で怖い存在でした。
昭和46年に他界しましたが、姉たちは祖母の影響かも
しれません、やはり厳格な性格が似ているようです。
今の時代でも、見習う事柄は沢山ありますね。
それにしても懐かしい写真の数々、どこから探して
アップされるのでしょうか。
「和紙に包まれたお菓子」ぼそぼそして不味い、私も同感
でも私の孫はそれが好物なんです。デパートに行くと
お土産に買ってきます。
Posted by なっちゃんなっちゃん at 2013年04月18日 19:43
なっちゃんさん、こんにちは。
お灸やモノサシは私も随分経験しました。
ワルイコトの度合いによって、モグサの大きさはどんどん大きくなり、今思えば、大きくなればなるほど安全なはずなのですが、ワルガキにとっては恐怖そのものでした。
裁縫をたしなんでいた母は、太くて長い立派なモノサシを愛用していましたが、こんな高級なモノサシではモノサシに申し訳ないと、いつからか布団たたきに機種変更し、威力も格段と上がりました。
怒られる側がそれらの意味を理解しましたし、怒る側も加減をそれなりに知っていました。
アップする画像は画像検索をして拝借しています。
デザインの仕事をする私にとっては「あるまじき」行いですが、個人の思い出を装飾する素敵な画像として、使い方や画像選択には配慮しながら使わせていただいています。
いにしえの写真は雰囲気のある写真をモノクロ画像に変換したりして使わせていただきます。
今のところ皆様の寛大なご厚意によりトラブルもなく、更新させていただいております。
Posted by NoriNori at 2013年04月19日 11:59
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