2014年02月17日
北風と太陽

女子校生時代のエピソードを引用しながら話し始めたのは、ママさん支援活動をしているという女性講師でした。
彼女は「怒り」を第2次感情と位置付け、感情の動物である人間は、怒らなくてもイイ場面で怒っていることも多いのではないかと話します。

女性講師は、「怒り」を期待・心配・悲しみだと定義して、気の許せる大事な家族にこそ、抱く感情が増幅されるために、期待・心配・悲しみが裏切られるような場面には感情が過剰に脳に送られ、恐るべき結果につながるんだと説明していました。
他人を許せるのは、期待も心配も悲しみも、対象外だったり、極めて小さいからだとも言っていました。

ムスメたちに言わせれば、「短気」だと言うのかも知れません。
とはいえ、高校時代ならまだしも、50ヅラ引っさげて「短気」と言われるのもどうなんだろうと考えれば、私もそれなりに努力もしてみます。
目の前の事件に対し、許せる話しかどうかをツバをひとつ飲み込んで考えるくらいの時間稼ぎはします。
そして怒ることなくガマンすることもできるようになったような気もします。

場面によっては、その場を離れることも、黙ってやり過ごすこともそうなのかも知れません。
相手のあることですから、相手がどう考えるかはわかりませんが、戦わずしてこちらの真意が伝わるのであれば、それで充分なんでしょうし、必ずしもこちらが正論とは限らない以上、たとえそれが期待や心配や悲しみだったとしても、それを無理矢理押し付ける必要もありません。

酔ってる場面だったとはいえ、こちらは怒った覚えも全くなく寝耳に水のような話しですが、友人は私にひどく怒られたと思い込んでいました。
私は怒ったつもりがない以上、何のことやら?なんですが、よくよく話しを聞いてみれば、私が友人を心配するあまりに熱く語ったことが原因だったようです。
心配した私と、怒られたと思った友人の間には間違いなく違うストーリーが存在していたはずですが、伝達力も読解力も異なる者同志の意思疎通の難しさを感じました。
年をまたぎ、相手の真意がわかるまでの間、大事な友人との間に誤解した関係が生まれてしまっていたことは言うまでもありません。

剣道部でもないのに、先生の片手に竹刀が握られていたことの説明もつきませんが、愛情たっぷり?に空を切る竹刀って折れることもあるんだと知ったのもその頃です。
取っ手のついた木製のデカい三角定規はなかなか優秀な武器であることも知っています。
怒る方も怒られる方もそれぞれに理由はあります。
不幸にも「怒り」が発生してしまい、子どもの頃なら殴り合って解決に結び付けたやり方も、大人になった今、無用な争いを避け、静かに距離を置くこともできるようになりました。
しかし、それでは解決もしませんし、そうできない相手もいます。

相手のコトも考えずに自分のコトだけを押し付けるやり方では、北風に着たコートを脱がせることはできないんだと小学生の頃の童話かナンカで教わっていました。
冒頭の灯りが灯った玄関の女子高生が、覚悟を決めて玄関をあけると、心配顔のお母さんが「よかったぁ!心配したのよぉ!帰ってきてくれてよかったぁ!」と抱きしめてくれたんだそうです。

Posted by Nori at 12:31│Comments(0)
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