2013年01月24日
愛の言霊

今とは逆に、そういうことをしてしまう子どもは「ワルガキ」だったり、「ガキ大将」と、ちゃんと要注意人物のレッテルを貼られ、先生や大人のみならず、子どもたちからの監視の目も行き届いていました。
現在のようにインターネットやメールなどがなかったこともありますが、不幸の手紙同様、「できるだけ陰湿」なイヤガラセを相手に伝える手段には限界がありましたし、やり遂げるための根気も必要でした。
そしてナニヨリ、子どもがやることですから、遅かれ早かれ確実にシッポは捕まれました。

関西方面の高校生の自殺を受け、教職員が引責辞任したり、敏腕市長の号令一下、入試が中止になり、高校生たちが報道陣の前で数時間に及ぶ記者会見を開くなど、しらじらしく同情しながらネタ集めをしているメディアの格好の餌食になっているのを冷ややかに見ています。
もちろん急に受験できなくなった子どもたちをはじめ、ネタの中に登場する当事者たちにとっては大問題なわけで、解決の方向性は見つけなければなりませんが、同時に出てきた「教員の退職金減額」をめぐるニュースと共にナニかがヘンだと感じています。

今、この街を見渡した時、いかにもという少年少女を見つけることは非常に困難で、一時期オリンピック選手かなんかがスーツをだらしなく着こなしたことが話題になりましたが、そんな子どもたちさえもどこかに行ってしまいました。

私たちより少し下の世代は「新人類」などと呼ばれ、無気力・無関心・無感動と、その生態の特徴を見事に捉えた言葉で呼ばれるようになり、学級崩壊、登校拒否、ひきこもり、いじめ・・・などと聞けば、多くの人が実際に経験したり、実態こそ知らないまでも、何を指して表現された言葉なのか意味はわかります。
少し逸れてしまうかもしれませんが、私のブログを訪問してくださる方が「言霊」について教えてくれました。
仕事も含め、ネットという「バーチャル(仮想化された)」と呼ばれる世界で、私は多くの方と知り合うことができています。
お会いしたこともない方たちとのやり取りですから、言葉を慎重に探しているうちに、私らしさや内容が失われてしまうことも経験しています。
日本人にとって美徳とされる謙虚さや思いやりも、時に必要だと感じていますが、その方は私とのやり取りの中でこんなお話をしてくださいました。
「言葉に乗せた言霊が伝わればバーチャルな世界でも素晴らしい出会いはあります。身内を謙遜したり他人行儀な美辞麗句などは不要ですから、ありのままの素直さで家族思いの温かな気持ちを率直に語ってほしい」
・・・と。

言霊信仰においては、声に出した言葉は現実の事象に影響を与えると信じられ、発した言葉の良し悪しによって吉事や凶事が起こるとされ た。そのため、神道での祝詞の奏上では絶対に誤読がないように注意 された。結婚式などでの忌み言葉も言霊信仰に基づく。日本は言魂の力に よって幸せがもたらされる国(言霊の幸はふ国)とされた。

使い方によっては良くも悪くも人の心を動かせます。
「いじめ」という言葉は本質の大部分が解決されないまま一人歩きしている印象があります。
「ニート」や「フリーター」という言葉も然りですが、働かない人や自分の都合で定職につかない人たちを総称することで、そうなってしまった社会に目を向けることなく、あたかもそういう人たちが容認されているような風潮があるように感じています。
さまざまな事情があっての現状なのでしょうが、解決しないまま、魂のこもっていない言葉を乱用し、対岸の火事を高みの見物で、アイデアもないまま批判ばかりする国になってしまったのでしょうか。。。
なんでもひとくくりにして総称し、報道しやすくしただけなら、そんなことを望んだ覚えはありません。

苦しんでいるムスメと同じ会社で働く同僚たちなら見抜けるのでしょうか。
友達なら・・・家族なら・・・大人なら・・・
彼女に関わる人たち全員が異変に気づけない世の中だとしたら残念です。
もちろん、バカげた決断をしない本人の力も大事でしょう。

市長や有名人の発言、関係者の言動の揚げ足を取るのもどうかと思いますが、誰かの批判をする前に、私自身を見直して「タマシイ」の通じ合う関係をたくさん作ることができたらシアワセです。

今は滅びたかもしれない何千年も前の光なのに、真っ黒な夜空を楽しくしてくれています。
言葉はなくても、「キレイ」と思わせてくれる星たちの魂のように、温度のある言霊を発信できる私たちにはもっとできることがあるのかもしれません。
Posted by Nori at 19:15│Comments(0)
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