2014年04月08日
もう恋なんてしない

中学の時のアレがソォだったのか?
それとも高校3年生の時のがソレにあたるのか。。。
小学生の時に日本人離れした独特の印象を持つ同級生のノリコちゃんが大好きで、私の友人たちはそのことを誰でも知っていました。
「好きだ!」と言ったところでドォなるわけでもなく、さりとてノリコちゃんが他のオトコどもと楽しそうに話しているのを放っておけるウツワでもなく、ナニをどうしたかったのかもわからないウチに、ノリコちゃんは転校してしまい、私の純情は勝手に自爆してしまいました。

転校する前に仲の良かった女子達に囲まれ、少し背の伸びたノリコちゃんをその隙間からこっそり見ていました。
ノリコちゃんのカムバックはたちまち話題となり、ニヤニヤと悪い顔をした友人たちが、なんとか私とノリコちゃんの仲を取り持とうとお節介を焼きますが、思春期に突入した私と、私には必要以上の興味のないノリコちゃんの距離は微動だにしないまま時間は過ぎていきます。

同じ地区にあるとはいえ、学校が違うだけで流行モノも文化も違っているように感じました。
地域活動で顔を合わせたことがある人も、親戚同然の付き合いをしていた人もいましたが、第1小学校と第2小学校というだけで、やはり見えない壁は存在し、タカダカ12歳といえどもナワバリ意識のようなものは間違いなくありました。
それは今でも感じなくはありません。

違う幼稚園や保育園から集まって小学校1年生になった時には、もっと早く友達になれたような気がしますが、ちゃんとしゃべれるようになった中学1年生は、そういうワケにはいきませんでした。
そうは言ってもずっと小学校同志の壁をただ憂いていることもできず、授業内容によっては協力しなければできないこともありますし、部活によっては投げられた球を捕らないわけにもいきません。
愛国心という言葉があるのなら、愛組心みたいなものがギコチないまま2年生に上がると、先生方もそれを知ってか知らずか、クラス編成ではうまくできる他校同志の生徒を見事に並べて見えない壁を取り除くことに成功します。

他校との交流ができるようになると、目の前の美しいものに気づけるようになります。
他校には何の進展もなかったノリコちゃん以上の逸材がいることに気づきます。
お断りしておきますが、コレはあくまでも中学2年生の時の話しです。

笑う時にも歯を見せませんから、ノドチンコを見せて笑うオーキさんとは大違いでした。
今ならLINEでもメールでもコミュニケーション方法はたくさんありますし、同じクラスの同級生ならアドレスをゲットするのも難しそうではありません。
しかしその時代は、電話をするか、ラブレターを書くか、それとも当たって砕け散るか、そんなことくらいしか自分のキモチを伝える手段はありませんでした。

砕け散るにはまだまだガラスのハートも成長中で、必要以上の衝撃に耐えられるかどうかもわからないとなると、やっぱり遠くから見ているか、気のナイふりして友達として近づくしかありません。
コレってストーカーが誕生する時の心境と同じでしょうか。
すっかり友達になって迎えた3年生のクラスも私とヨーコちゃんは一緒でした。
待ち合わせの私鉄の駅に時間通りに行くと、ヨーコちゃんは既に駅のホームにいました。
しかし待てど暮らせど他のメンバーは現れません。
「どーしよっか?」と切り出したのはヨーコちゃん。
「もォ少し待ってみようよ」と言う私に「行っちゃおうよ」と言ったのもヨーコちゃん。
ハメられたことにも気づかず、かといってハメる勇気もない私に考える時間もなく電車が到着します。

映画は「グリズリー」という大きな熊の映画でした。巨大サメの2匹目のドジョウを狙った映画だったと思われますが、内容は全く覚えていません。
「♪もう恋なんてしないなんて 言わないよ 絶対♪」と、槇原敬之がヒット曲を作るよりも、もっとずっと前に目覚めてしまった少年は、その後「もう恋なんてしない」とまたしてもあっさり破局を迎えるのでした。
Posted by Nori at 20:11│Comments(0)
│ゆかいな仲間たち