2016年08月09日
ふたりだけの秘密
「絵日記」
今日、お母さんに頼まれてお昼ご飯を買いに近くのコンビニに行きました。
そのコンビニは、いつも混んでいるので、お昼より少し早めに行きました。
それでもやっぱり混んでいました。
お母さんに頼まれたお弁当を持ってレジを待つ列の一番後ろに並びました。
私の後ろにもどんどん並ぶ人がいてレジの前はお弁当を持った人達でいっぱいになりました。
前の前のおばさんは、たくさんの小銭で支払いをするために、ほかの人より時間が掛かりました。
前のおじさんは、店員さんと仲良しらしく、私にはわからないお話をして、もっと時間が掛かりました。
やっと私の順番が来て、店員さんが合計金額を言ってくれたのでお母さんから預かったオカネを出しました。
すると31円足りませんでした。
うしろにはたくさんの人達がいるし、私は困ってしまい、泣いてしまいました。
店員さんも困ってしまいました。
オカネが足りなければ、お弁当は買えないと店員さんが言いました。
私はどんどん悲しくなりました。すると私のすぐうしろに並んでいたおじさんが、「あぁ!オレたち一緒、一緒!」と言って「これも一緒に!」とおじさんのお弁当をカウンターに置きました。
おじさんは「あっためなくていいよ!袋も一緒にして!」と言って、おじさんの分と31円を出してくれました。
同じ袋に入ったお弁当をおじさんが持ち、「行こ!」って言うので、一緒にコンビニを出ました。おじさんは袋から自分のお弁当を出すと、「オウチは近く?」と聞くので、うなづくと、「じゃぁ、お弁当を無事にウチに届ければ作戦成功だ!」と言いました。
もう涙は出ませんでしたが、知らないおじさんだけど、お弁当は買えました。「じゃぁね」って私が言うと、おじさんは「今のコトは二人だけの秘密にしようよ!じゃぁね!」って言いながらクルマで行っちゃいました。
私は「ありがとう!」って言うのを忘れてしまいました。
・・・小学校一年生かな?二年生かな?
夏休み真っ最中!
チョット日焼けしたアノ子の絵日記に私は登場できるんでしょうか?
ストーカーや変質者と疑われない配慮はしたつもりですが。。。
それとも「ふたりだけの秘密・・・」なんでしょうか。
2015年10月05日
谷底の町
スーパームーンの「その日」、私は長野の車山あたりにいました。
何十年も前に車屋ケンチャンたちとスキーに訪れて以来・・・だと思われますが、自身にスキーの才能がないことを悟り、上から下へ下るだけの寒い遊びに共感することもできず、それっきりです。
それより前には、下心たっぷりの「ドライブ」で、美ヶ原高原美術館なんかに行った覚えがありますが、ヴィーナスラインから見下ろす景色を楽しめる感性などない上に、高原に並べられた多くのオブジェに意味を感じることすらできず、ドライブして食事してベッドに入るまでの時間つぶしに丁度いい距離感を羊の皮をかぶって過ごす肉食男子でした。
せっかく車山まで行くのならと、アンジーがどうせ誰かから聞きかじった「中山道」の木曽路の宿場町巡りがステキらしい・・・という情報に乗っかって中央道を名古屋方面に進んでみました。
「伊那」。
サラリーマン時代には代理店さんの応援で何度か足を運んだはずの場所も、町並みが変わってしまったのか、私の記憶が消え始めたのか、伊那インターを降りたところから別世界で、ブ厚い地図をたどってたどりついた代理店さんのオフィスも、右だったか左だったかさえ思い出せません。
文句を一切言わずに目的地に導いてくれるナビのオネェさんは、この日も鼻にかかったセクシーボイスで右、左、あ〜んソコソコと見覚えのない町並みを案内してくれます。
走り去る景色の両側には、「採っていいよ」と言わんばかりのリンゴやブドウの木が、道に張り出しています。
ヒト気のある町並みをはずれ、山あいを走ること30分ほど。
道をまたぐ大きな関所門をくぐると、ナビのオネェサンは「お疲れ様でした」と福島宿に到着したことを伝えてくれます。
「う〜ん、確かに古びた町並みだけど・・・」
想像していた「宿」の雰囲気とは程遠く、それらしい雰囲気を漂わせたおみやげ物屋さんが道路の両端に並びますが、これが目指していたものだとしたらだいぶ残念なカンジです。
何軒かある和菓子屋さんはどちらのお店も「栗小餅」ののぼり旗がはためいていて、この町の楽しみ方をリサーチするためにひときわ大きな駐車場の和菓子屋さんに入ってみることにしました。
若い店員さんが「この町のコトはよく知らないんです♥」と、ナンとも斬新なやりとりながら店先のガイドマップを広げて「現在地はココですから〜・・・」と中山道を指でなぞります。
どうやら福島宿よりも奈良居井宿の方が見応えがあることはわかりました。
それと「栗小餅(栗粉餅)」はこの町の伝統的なお菓子で、お店によってその味が違うことも教えてくれました。
かなり素朴過ぎる味は、確かに伝統的なお菓子だというだけはあります。
どうやら私の舌べらは伝統的なお菓子の美味しさには追いついていないようです。
「車を置いていっていいですよ」と親切な申し出に甘えながら、茶巾絞りで栗をかたどった「栗きんとん」を口に入れ、教えてもらった坂道を登っていくと、「おぉ〜!」先ほどまで見てきた雰囲気からは、かなりタイムスリップした景色に変わります。
月曜日と言うこともあり、観光客らしき人達の姿はまばらで、ちょっと得した気分です。
道路も広めで規模も小さく、以前訪れた妻籠宿や馬籠宿のような圧倒的な宿感はありませんが、私はこういう町並みを歩くことが好きです。
予習をしていかなかったせいで、アチコチに設置された矢印付きの看板の意味すらわからず、天下の四大関所の福島関所があった福島宿を堪能するには感性だけでは残念なカンジです。
宿を改修した漆器屋さんやカフェなんかも昔のままの姿を留めつつ、看板を出していましたが、どちらのお店も定休日らしく、逆にその方が昔なカンジで心も踊ります。
「上の段」と呼ばれるお宿を背に坂道を下っていくと「福島関所」に出ます。
また登る階段が立ちはだかりますが、「まだあげ初めし前髪の・・・」で始まる島崎藤村の歌碑にジーンとしながら、いにしえの先人達が歩いたはずの狭い階段を登りながらノスタルジックな気分になります。
復元された西門をくぐり、高い通行料を払って行き来したという関所の上番所・下番所の中には関所に関する資料が並び、特に女性の通行は厳しかったと、スピーカーのオネェさんが言っていました。
時代劇で見るような資料の数々が、実際に使われていたものだと思えば、カメラを担いで呑気に見ているこの時代が、いかに幸せかと痛感します。
「山蒼く暮れて夜霧に灯をともす、木曽福島は谷底の町」とうたわれたこの町は関所を置くのには適した場所だとアナウンスされていましたが、冬になれば雪深いこの町で過ごしていた先人達にどれほどの苦労があったかなんて想像もできません。
和菓子屋さんに御礼を言って、教えていただいた通りに木曽路十一宿の江戸側から2番目で、11宿の中では最も標高が高い「奈良井宿」に向かいます。
福島宿からは15分ほどで、着いた有料駐車場には係の人が居なくて、無料駐車場でした。
多くの旅人で栄えたこの宿場町は「奈良井千軒」といわれただけあって福島宿とはまったく景色が違います。
漆器屋のお母さんが宿場町の中で最も規模の大きい宿場なんだと教えてくれました。
1キロほどはあるんでしょうか。
道の両側には宿が並び、圧巻です。2階建ての建物ながら背の低い町並みは現代人とは違う身長の先人達の生活を想像させ、どこかから漂う薪を燃すニオイもイイカンジです。風呂の準備でもしているんでしょうか。
所々にある水場も、きっと当時の人達は大切なものだったんでしょうし、井戸端会議で賑やかだったのかも知れません。
保存されていると言う宿場町ながら、住んでいる人達もいて、趣のある引戸を開け、走って出てくる子どもの姿は現代人です。
旅のみやげにでもしたんでしょう。
曲げ物、櫛 、漆器などの伝統も受け継がれ、何軒ものお店で販売しているようでした。
民宿も現存していて、当時のお宿の雰囲気を体験することもできるようです。
「住んでる者にとっては決して住み良いところではないんだよ。。。」と、通りすがりのお母さんが足を止め、話してくれました。
「若いモンはみんな町に出ちゃって、居るのは年寄りばっかりで・・・」
物見遊山の私にはステキに見える町並みも、住んでいる人達にはソウばっかりでもないようです。
「除雪もしてくれなきゃ買い物にも行けない・・・仕事だってない。生協で食べ物を届けてもらってるのよ」
そんな切実なお話に、先人達はどうやって乗り切ったんだろうと考えながらクルマに乗り込みました。
私の町の龍勢(無形民俗文化財)然り。
年寄りしか支えない伝統を、年寄り任せにしているのであれば行く末は見えています。
日本人がこぞって押し寄せる外国の文化や古く美しい町並みは、決して年寄りだけが守っているんじゃないことに早く気づかないと、日本固有の魅力は失われてしまうばかりか、ワビもサビもないただゴッチャマゼのなんだかわからない文化(ソレを文化とはいえそうもありませんが)が通り過ぎていくだけのような気がします。
失われてしまってから「あーなんだかそんなのもあったよねぇ。。。」と言うのも日本人ですし、とっくに失ったものを「ナントカ復活させる!」なんて言い出すのも日本人のように感じます。
突然、見たこともないゴローマルに開眼し、マオちゃんの復活を久しぶりに喜び、フクヤマが結婚すればナゼか会社を休んじゃうのも結構ですが、今あるものを守る知恵を少しでも出し合う「協力」もしていかないと・・・。
予想外に宿場町を楽しみ過ぎて、予定していたチェックインに間に合っていません。
今時のバイキング料理の待つホテルに大急ぎで向かいつつ、標高が高く、空しか見えないヴィーナスラインで、風に揺られたススキの向こうに見えるでっかい月は「スーパームーン」でした。
何十年も前に車屋ケンチャンたちとスキーに訪れて以来・・・だと思われますが、自身にスキーの才能がないことを悟り、上から下へ下るだけの寒い遊びに共感することもできず、それっきりです。
それより前には、下心たっぷりの「ドライブ」で、美ヶ原高原美術館なんかに行った覚えがありますが、ヴィーナスラインから見下ろす景色を楽しめる感性などない上に、高原に並べられた多くのオブジェに意味を感じることすらできず、ドライブして食事してベッドに入るまでの時間つぶしに丁度いい距離感を羊の皮をかぶって過ごす肉食男子でした。
せっかく車山まで行くのならと、アンジーがどうせ誰かから聞きかじった「中山道」の木曽路の宿場町巡りがステキらしい・・・という情報に乗っかって中央道を名古屋方面に進んでみました。
「伊那」。
サラリーマン時代には代理店さんの応援で何度か足を運んだはずの場所も、町並みが変わってしまったのか、私の記憶が消え始めたのか、伊那インターを降りたところから別世界で、ブ厚い地図をたどってたどりついた代理店さんのオフィスも、右だったか左だったかさえ思い出せません。
文句を一切言わずに目的地に導いてくれるナビのオネェさんは、この日も鼻にかかったセクシーボイスで右、左、あ〜んソコソコと見覚えのない町並みを案内してくれます。
走り去る景色の両側には、「採っていいよ」と言わんばかりのリンゴやブドウの木が、道に張り出しています。
ヒト気のある町並みをはずれ、山あいを走ること30分ほど。
道をまたぐ大きな関所門をくぐると、ナビのオネェサンは「お疲れ様でした」と福島宿に到着したことを伝えてくれます。
「う〜ん、確かに古びた町並みだけど・・・」
想像していた「宿」の雰囲気とは程遠く、それらしい雰囲気を漂わせたおみやげ物屋さんが道路の両端に並びますが、これが目指していたものだとしたらだいぶ残念なカンジです。
何軒かある和菓子屋さんはどちらのお店も「栗小餅」ののぼり旗がはためいていて、この町の楽しみ方をリサーチするためにひときわ大きな駐車場の和菓子屋さんに入ってみることにしました。
若い店員さんが「この町のコトはよく知らないんです♥」と、ナンとも斬新なやりとりながら店先のガイドマップを広げて「現在地はココですから〜・・・」と中山道を指でなぞります。
どうやら福島宿よりも奈良居井宿の方が見応えがあることはわかりました。
それと「栗小餅(栗粉餅)」はこの町の伝統的なお菓子で、お店によってその味が違うことも教えてくれました。
かなり素朴過ぎる味は、確かに伝統的なお菓子だというだけはあります。
どうやら私の舌べらは伝統的なお菓子の美味しさには追いついていないようです。
「車を置いていっていいですよ」と親切な申し出に甘えながら、茶巾絞りで栗をかたどった「栗きんとん」を口に入れ、教えてもらった坂道を登っていくと、「おぉ〜!」先ほどまで見てきた雰囲気からは、かなりタイムスリップした景色に変わります。
月曜日と言うこともあり、観光客らしき人達の姿はまばらで、ちょっと得した気分です。
道路も広めで規模も小さく、以前訪れた妻籠宿や馬籠宿のような圧倒的な宿感はありませんが、私はこういう町並みを歩くことが好きです。
予習をしていかなかったせいで、アチコチに設置された矢印付きの看板の意味すらわからず、天下の四大関所の福島関所があった福島宿を堪能するには感性だけでは残念なカンジです。
宿を改修した漆器屋さんやカフェなんかも昔のままの姿を留めつつ、看板を出していましたが、どちらのお店も定休日らしく、逆にその方が昔なカンジで心も踊ります。
「上の段」と呼ばれるお宿を背に坂道を下っていくと「福島関所」に出ます。
また登る階段が立ちはだかりますが、「まだあげ初めし前髪の・・・」で始まる島崎藤村の歌碑にジーンとしながら、いにしえの先人達が歩いたはずの狭い階段を登りながらノスタルジックな気分になります。
復元された西門をくぐり、高い通行料を払って行き来したという関所の上番所・下番所の中には関所に関する資料が並び、特に女性の通行は厳しかったと、スピーカーのオネェさんが言っていました。
時代劇で見るような資料の数々が、実際に使われていたものだと思えば、カメラを担いで呑気に見ているこの時代が、いかに幸せかと痛感します。
「山蒼く暮れて夜霧に灯をともす、木曽福島は谷底の町」とうたわれたこの町は関所を置くのには適した場所だとアナウンスされていましたが、冬になれば雪深いこの町で過ごしていた先人達にどれほどの苦労があったかなんて想像もできません。
和菓子屋さんに御礼を言って、教えていただいた通りに木曽路十一宿の江戸側から2番目で、11宿の中では最も標高が高い「奈良井宿」に向かいます。
福島宿からは15分ほどで、着いた有料駐車場には係の人が居なくて、無料駐車場でした。
多くの旅人で栄えたこの宿場町は「奈良井千軒」といわれただけあって福島宿とはまったく景色が違います。
漆器屋のお母さんが宿場町の中で最も規模の大きい宿場なんだと教えてくれました。
1キロほどはあるんでしょうか。
道の両側には宿が並び、圧巻です。2階建ての建物ながら背の低い町並みは現代人とは違う身長の先人達の生活を想像させ、どこかから漂う薪を燃すニオイもイイカンジです。風呂の準備でもしているんでしょうか。
所々にある水場も、きっと当時の人達は大切なものだったんでしょうし、井戸端会議で賑やかだったのかも知れません。
保存されていると言う宿場町ながら、住んでいる人達もいて、趣のある引戸を開け、走って出てくる子どもの姿は現代人です。
旅のみやげにでもしたんでしょう。
曲げ物、櫛 、漆器などの伝統も受け継がれ、何軒ものお店で販売しているようでした。
民宿も現存していて、当時のお宿の雰囲気を体験することもできるようです。
「住んでる者にとっては決して住み良いところではないんだよ。。。」と、通りすがりのお母さんが足を止め、話してくれました。
「若いモンはみんな町に出ちゃって、居るのは年寄りばっかりで・・・」
物見遊山の私にはステキに見える町並みも、住んでいる人達にはソウばっかりでもないようです。
「除雪もしてくれなきゃ買い物にも行けない・・・仕事だってない。生協で食べ物を届けてもらってるのよ」
そんな切実なお話に、先人達はどうやって乗り切ったんだろうと考えながらクルマに乗り込みました。
私の町の龍勢(無形民俗文化財)然り。
年寄りしか支えない伝統を、年寄り任せにしているのであれば行く末は見えています。
日本人がこぞって押し寄せる外国の文化や古く美しい町並みは、決して年寄りだけが守っているんじゃないことに早く気づかないと、日本固有の魅力は失われてしまうばかりか、ワビもサビもないただゴッチャマゼのなんだかわからない文化(ソレを文化とはいえそうもありませんが)が通り過ぎていくだけのような気がします。
失われてしまってから「あーなんだかそんなのもあったよねぇ。。。」と言うのも日本人ですし、とっくに失ったものを「ナントカ復活させる!」なんて言い出すのも日本人のように感じます。
突然、見たこともないゴローマルに開眼し、マオちゃんの復活を久しぶりに喜び、フクヤマが結婚すればナゼか会社を休んじゃうのも結構ですが、今あるものを守る知恵を少しでも出し合う「協力」もしていかないと・・・。
予想外に宿場町を楽しみ過ぎて、予定していたチェックインに間に合っていません。
今時のバイキング料理の待つホテルに大急ぎで向かいつつ、標高が高く、空しか見えないヴィーナスラインで、風に揺られたススキの向こうに見えるでっかい月は「スーパームーン」でした。
2015年08月14日
26と753
拝啓 お盆休みですか?
私はずっと仕事です。
できるだけ長い渋滞にハマったり、観光地でゲリラ豪雨にあったりして、私の気分を和ませてください。 敬具
先日、不思議な出会いがありました。
最近お邪魔させていただくようになった居酒屋さんから名刺のご注文をいただき、食事の時間にはちょっと早い18時半頃にお届けに行ってきました。
お盆休み前だからなのか、早い時間にもかかわらず、既にカウンターは3席ほどしか空いていませんでしたが、入口近くの隅の指定席に座り、旬の「とうがん」と、初物だと言う「さんまの刺身」をオーダーし、その間に生ビールで暑い一日に感謝していました。
あっという間に飲み干し、「オカワリッ!」と2杯目を注文すると、「ピッチ早いッスネ!」と店主のムスコさんが冷えたジョッキを片手にビールサーバーに向かいます。
ココが砂漠でなかった事に感謝もして、ゴクゴクとありがたくノドを潤しますが、キッチリ1合の冷や酒で潔く寝床に就いた亡き祖父の「酒との関係」を尊敬し、いつかは自分もそんな呑み方ができるようになりたいと思いつつ、ゲリラ豪雨並みにバケツをひっくり返したように呑んでしまう意地汚い呑み方からはまだまだ卒業できそうにありません。
「フグヒレを酢みそで・・・」とツキダシが出る前に2杯目は空になり、汗で溺れそうになるほどの暑い一日にカラダが欲しているのは「水分」なのか、「アルコール」なのか、迷わず3杯目を発注します。
この居酒屋さんは、JR草薙駅の目の前で、腕利きのお父さんと、ムスコさんの二人がカウンターの中で私達を楽しませてくれますが、今日までのお店の歴史をたどってみれば、その昔オンナ遊び病を患っていた頃に通っていたスナック風の居酒屋や、朝まで付き合ってくれた「プールバー」のオーナーなんかも関係者で、1年ほど前に草薙にオープンしたお世話になった先輩の娘さんが経営する「ガールズバー」もゴヒイキにしてくれている事がわかり、「他人のような気がしない」と言う理由で気に入ってノレンをくぐらせていただいております。
3人連れのお客さんを断り、二人連れのお客さんにも「今夜はいっぱいで・・・」とお父さんがハゲたアタマを下げ下げ断る中、キャシャーンみたいな立体マスク姿で登場したチッチャなお婆さんが店内を見渡しながら「入れそォ・・・?」といかにも上品に入口を開けると、お父さんが私の隣の席に目をやり、私もそれに応えて「運命ですから・・・」と椅子を引いて「こんな席でよければ・・・」とカウンターに散らかった私のナワバリをコッチに寄せながら1人分の席を作ります。
彼女のお姿はこの店で何度か拝見していますが、隣に座った事はなく、もちろん話した事もありません。
「今日は忙しくて・・・」と、独り言なのか、私に話しかけているのかわからない一言から始まり、お見かけする限り間違いなく現役を引退されているお年頃にもかかわらず、「建設会社のオーナー?」「不動産関係?」と思えるようなお話に、耳を傾けますが、私も自身の素性を「通りすがりのチリメン問屋」以上に明かす事はなく、ましてや先様の素性をネホリハホリ聞く趣味もないので、独り言のような話しに「へぇ」「そぉですか・・・」と無責任な相づちを打つ事に終始いたします。
「お話を聞いてくださっているのに、マスクのままは失礼よね・・・」とマスクをはずしながら「私は半身麻痺なのよ・・・」とカラダの右側半分がリハビリのおかげで辛うじて動いてくれる事を私に告げますが、お箸を使ったりグラスを持つ手にはそんな様子は見当たりません。
私が中学生だったか、高校生だったか、若い頃に父がやはり「顔面神経痛」を患い、入院していた事を話し、寝る時には閉じる事ができない目やクチにテープをはり、無表情の半分の顔が怖かった事を話すと、「私もソォなのよ」と無理矢理マバタキをする右目が涙ぐんでいるのを見せてくれます。
話しの端端に伺える上品さは、聞きたくもないウワサ話しをベラベラとしゃべりまくるウチの近所のイチジクババァにも見習わせたいところですが、関わること自体マッピラゴメンなので、放っておきます。
いつしか私達の会話は成立し始め、気さくなお人柄も相まって「あなたのお住いは?」「ご家族は?」と、話しが弾み始めました。
私は話せる限りの話しで答えていると、「私の名前は・・・」と自分の名前は変わっているので読んで(呼んで)もらえた試しがないと言う話しになりました。
おもむろにさっきまで割り箸の入っていた袋を裏返すと、バッグの中からペンを取り出し、リハビリ中の右手でスラスラとフルネームを書きました。
【二六代】
確かに読めません。
読めない私を察すると、すぐさま「ふ・む・よ」と振り仮名をふってくれます。
私はペンを借り、その横に「七五三夫」と書きました。
「父方の亡き祖父です。これも読めないでしょ?」とペンを置くと、「シメオさんね。じゃぁアナタはアキコさんの甥ッコさん?」と、まさかの急展開に。
さっきまで話していた「お名前」や「お住い」や「家族の事」などの「点」が線となり、一気に「面」になると、「アキコさんとは同級生なの。彼女はお元気?」と、懐かしい話しに火がつきます。
「県東部に嫁いだアキコオバサンとは年に数回会ったり電話をさせていただりしていますが、ロスに暮らすアキコオバサンのムスメさんとは日常的にメールのやりとりをさせていただいたり、昨年日本に一時帰国した際には何十年ぶりかのデートをしました。そのムスメさんのムスメさんもアチラで結婚が決まったようで・・・」
・・・なんて同席しない登場人物の個人情報の限界を超え話す私に両目に涙を浮かべ、「本当に幸せな夜ね」とお喜びのご様子でした。
彼女は「二六代」と書いた箸袋に「皇紀2600年生まれ」と書き足しました。
「皇紀2600年生まれ」が昭和何年なのかはわかりませんが、そんな書き方をする人が下品であるはずもなく、イキでコジャレた生き方をされている方なんだと察します。
そうなると無責任な「へぇ・・・」や「そぉなんですか・・・」は存在せず、古き農村地区だったこの街の、私と共有できる限界までさかのぼるに留まらず、私の知らないエピソードの数々にお互い帰る時間も忘れ、若い恋人並みに夢中になりました。
それでも「初老」の私と、ベテランの「老」の二六代さん。
名残惜しい時間に見切りをつけた帰り際、「アキコさんも私と同い年なんだから若い時とは違うでしょ?」と言いながら私の箸袋に手を伸ばし、ペンを走らせます。
「古希過ぎて 一病あるを よしとする 卒寿目指して日々晴れやかに」
「急ぐとも 心静かに手を添えて 外にこぼすな 松茸の露」くらいしか思いつかない私には上等過ぎるメッセージに感激しますが、「アキコさんに会う機会があったら伝えてね」の命、しかと受け止めました。
「あなたとお友達になれてよかったわ。素敵な時間をありがとう」なんて言われれば「ホれてまうやろっ!」とか「今夜も夢で!」とか言い返す雰囲気は全くなく、再会を誓い、お互いの方向に右足から帰りました。
皇紀2600年 1940年 昭和15年・・・。
さっきオバサンに電話をしてみたところ、お留守のようでしたが、電話に出たオジサンの話しではアキコおばさんは昭和14年生まれらしい・・・。
早生まれ・・・?
「謎」は近々解決できる見通しです。
私はずっと仕事です。
できるだけ長い渋滞にハマったり、観光地でゲリラ豪雨にあったりして、私の気分を和ませてください。 敬具
先日、不思議な出会いがありました。
最近お邪魔させていただくようになった居酒屋さんから名刺のご注文をいただき、食事の時間にはちょっと早い18時半頃にお届けに行ってきました。
お盆休み前だからなのか、早い時間にもかかわらず、既にカウンターは3席ほどしか空いていませんでしたが、入口近くの隅の指定席に座り、旬の「とうがん」と、初物だと言う「さんまの刺身」をオーダーし、その間に生ビールで暑い一日に感謝していました。
あっという間に飲み干し、「オカワリッ!」と2杯目を注文すると、「ピッチ早いッスネ!」と店主のムスコさんが冷えたジョッキを片手にビールサーバーに向かいます。
ココが砂漠でなかった事に感謝もして、ゴクゴクとありがたくノドを潤しますが、キッチリ1合の冷や酒で潔く寝床に就いた亡き祖父の「酒との関係」を尊敬し、いつかは自分もそんな呑み方ができるようになりたいと思いつつ、ゲリラ豪雨並みにバケツをひっくり返したように呑んでしまう意地汚い呑み方からはまだまだ卒業できそうにありません。
「フグヒレを酢みそで・・・」とツキダシが出る前に2杯目は空になり、汗で溺れそうになるほどの暑い一日にカラダが欲しているのは「水分」なのか、「アルコール」なのか、迷わず3杯目を発注します。
この居酒屋さんは、JR草薙駅の目の前で、腕利きのお父さんと、ムスコさんの二人がカウンターの中で私達を楽しませてくれますが、今日までのお店の歴史をたどってみれば、その昔オンナ遊び病を患っていた頃に通っていたスナック風の居酒屋や、朝まで付き合ってくれた「プールバー」のオーナーなんかも関係者で、1年ほど前に草薙にオープンしたお世話になった先輩の娘さんが経営する「ガールズバー」もゴヒイキにしてくれている事がわかり、「他人のような気がしない」と言う理由で気に入ってノレンをくぐらせていただいております。
3人連れのお客さんを断り、二人連れのお客さんにも「今夜はいっぱいで・・・」とお父さんがハゲたアタマを下げ下げ断る中、キャシャーンみたいな立体マスク姿で登場したチッチャなお婆さんが店内を見渡しながら「入れそォ・・・?」といかにも上品に入口を開けると、お父さんが私の隣の席に目をやり、私もそれに応えて「運命ですから・・・」と椅子を引いて「こんな席でよければ・・・」とカウンターに散らかった私のナワバリをコッチに寄せながら1人分の席を作ります。
彼女のお姿はこの店で何度か拝見していますが、隣に座った事はなく、もちろん話した事もありません。
「今日は忙しくて・・・」と、独り言なのか、私に話しかけているのかわからない一言から始まり、お見かけする限り間違いなく現役を引退されているお年頃にもかかわらず、「建設会社のオーナー?」「不動産関係?」と思えるようなお話に、耳を傾けますが、私も自身の素性を「通りすがりのチリメン問屋」以上に明かす事はなく、ましてや先様の素性をネホリハホリ聞く趣味もないので、独り言のような話しに「へぇ」「そぉですか・・・」と無責任な相づちを打つ事に終始いたします。
「お話を聞いてくださっているのに、マスクのままは失礼よね・・・」とマスクをはずしながら「私は半身麻痺なのよ・・・」とカラダの右側半分がリハビリのおかげで辛うじて動いてくれる事を私に告げますが、お箸を使ったりグラスを持つ手にはそんな様子は見当たりません。
私が中学生だったか、高校生だったか、若い頃に父がやはり「顔面神経痛」を患い、入院していた事を話し、寝る時には閉じる事ができない目やクチにテープをはり、無表情の半分の顔が怖かった事を話すと、「私もソォなのよ」と無理矢理マバタキをする右目が涙ぐんでいるのを見せてくれます。
話しの端端に伺える上品さは、聞きたくもないウワサ話しをベラベラとしゃべりまくるウチの近所のイチジクババァにも見習わせたいところですが、関わること自体マッピラゴメンなので、放っておきます。
いつしか私達の会話は成立し始め、気さくなお人柄も相まって「あなたのお住いは?」「ご家族は?」と、話しが弾み始めました。
私は話せる限りの話しで答えていると、「私の名前は・・・」と自分の名前は変わっているので読んで(呼んで)もらえた試しがないと言う話しになりました。
おもむろにさっきまで割り箸の入っていた袋を裏返すと、バッグの中からペンを取り出し、リハビリ中の右手でスラスラとフルネームを書きました。
【二六代】
確かに読めません。
読めない私を察すると、すぐさま「ふ・む・よ」と振り仮名をふってくれます。
私はペンを借り、その横に「七五三夫」と書きました。
「父方の亡き祖父です。これも読めないでしょ?」とペンを置くと、「シメオさんね。じゃぁアナタはアキコさんの甥ッコさん?」と、まさかの急展開に。
さっきまで話していた「お名前」や「お住い」や「家族の事」などの「点」が線となり、一気に「面」になると、「アキコさんとは同級生なの。彼女はお元気?」と、懐かしい話しに火がつきます。
「県東部に嫁いだアキコオバサンとは年に数回会ったり電話をさせていただりしていますが、ロスに暮らすアキコオバサンのムスメさんとは日常的にメールのやりとりをさせていただいたり、昨年日本に一時帰国した際には何十年ぶりかのデートをしました。そのムスメさんのムスメさんもアチラで結婚が決まったようで・・・」
・・・なんて同席しない登場人物の個人情報の限界を超え話す私に両目に涙を浮かべ、「本当に幸せな夜ね」とお喜びのご様子でした。
彼女は「二六代」と書いた箸袋に「皇紀2600年生まれ」と書き足しました。
「皇紀2600年生まれ」が昭和何年なのかはわかりませんが、そんな書き方をする人が下品であるはずもなく、イキでコジャレた生き方をされている方なんだと察します。
そうなると無責任な「へぇ・・・」や「そぉなんですか・・・」は存在せず、古き農村地区だったこの街の、私と共有できる限界までさかのぼるに留まらず、私の知らないエピソードの数々にお互い帰る時間も忘れ、若い恋人並みに夢中になりました。
それでも「初老」の私と、ベテランの「老」の二六代さん。
名残惜しい時間に見切りをつけた帰り際、「アキコさんも私と同い年なんだから若い時とは違うでしょ?」と言いながら私の箸袋に手を伸ばし、ペンを走らせます。
「古希過ぎて 一病あるを よしとする 卒寿目指して日々晴れやかに」
「急ぐとも 心静かに手を添えて 外にこぼすな 松茸の露」くらいしか思いつかない私には上等過ぎるメッセージに感激しますが、「アキコさんに会う機会があったら伝えてね」の命、しかと受け止めました。
「あなたとお友達になれてよかったわ。素敵な時間をありがとう」なんて言われれば「ホれてまうやろっ!」とか「今夜も夢で!」とか言い返す雰囲気は全くなく、再会を誓い、お互いの方向に右足から帰りました。
皇紀2600年 1940年 昭和15年・・・。
さっきオバサンに電話をしてみたところ、お留守のようでしたが、電話に出たオジサンの話しではアキコおばさんは昭和14年生まれらしい・・・。
早生まれ・・・?
「謎」は近々解決できる見通しです。
2015年08月09日
流しちゃダメ!
2波3波と次々に押し寄せる便意に、一時は山道の木の影で・・・と、車内に常備しているトイレットペーパーを確認しながら、最後の決断をするものの、「ギンギラギンにさり気なく(マッチ)」の歌詞を思い出しながら気を紛らせながら52号線を北上していました。
「ハイティーンブギ(マッチ)」の歌詞を思い出す頃にはたぶん健康な顔色とは言い難い状況だったに違いありませんが、「スニーカーぶる~す(マッチ)」を口ずさみ、「ヨコハマチーク(マッチ)」を思い出した頃には、もはや第何波の潮騒なのかは既にどうでもよく、こんなことならマッチのベストアルバムを買っときゃ良かったと、自身の準備不足を呪います。
「ゆれてハラハラな~やんで」とNight & Dayをうまくひっかけた「情熱☆熱風せれなーで」の歌詞に感心しつつ、もっと大腸が長ければとか、それじゃシッポじゃねぇか!だとか、指先から出せたら便利なのに!とか決して便意がアタマから離れる事はなく、ドライブの際には「アテント」の装着をマジメに考える年頃です。
ほぼうつろな状態で「下部温泉駅」にたどりつき、駆け込んだトイレでギリギリセーフを確認し、ウッスラ涙を浮かべホッとしながらふと見た目の前の貼り紙には「トイレットペーパー以外は流さないでください」と書かれていました。
いやいや決壊したてのたっぷりの土石流は・・・?
ワケありで、わざわざこの駅まで来て、トイレットペーパーだけを流してナニが楽しいのか?と、疲れきった脳みそで考えてみますが、そこは「清水のペーパーナイフ」と呼ばれ、泣く子も笑う不良少年だった私は、悪い顔をしながら全部流してやりました。
ちなみに缶ジュースに「開缶後はすぐにお飲みください」と書かれている場合は、すぐに飲み切る一面も持ち合わせています。
と、そんなプチエピソードはともあれ、ネットで見つけた下部温泉郷に来てみました。
清水からは1時間半程度でしょうか。
車屋ケンチャンも「下部はイイらしい・・・」と、温泉好きの友人から聞きかじった情報を受け売りしていましたので、背中を押された恰好です。
いつもならそのまま国道52号線を北上してしまって富士川の向こう側を通る事などありませんでしたから、まさかそんなところに温泉街?とネットの写真を見る限り昔ながらの温泉宿が立ち並ぶ風景に密かにワクワクしていました。
それならオナカが痛くなくても前日から正露丸を飲んどきゃ良かったのですが、1時間半ほどの道程をナメ切っていました。
山道にコンビニがいくつかあることだって、考えてみればアテントを装着しなくても、タバコやジュースを買うためだけに存在しているわけではない事はわかることです。
スッキリしたし、とりあえず昼メシ!と、クルマをトイレの前に停めたまま、周辺の食堂を覗き込みますが、どちらも老舗過ぎて不安がよぎるタイプの店で、店先のショーケースの中のロウで作ったサンプルもとても新鮮には見えず、蕎麦に至ってはトンコツ並みにギトギトのスープでは食欲も失せてしまいます。
道から少し入ったあたりにカフェ風のお店がありました。
見渡すところ選択肢も多そうではないので、消去法により決定します。
ちょっとオシャレな店構えは、財布の中身と要相談ですが、シェフらしき人が大きな鉄板でステーキを焼いていれば場違いなカンジは否めません。
かなり隅っこの小さなテーブルを選び、すまなそうに座ってみると、英語混じりで音楽を紹介する湘南あたりのFMラジオのお姉さんのようなしゃべり方をする店員さんがメニューとお水をもって現れました。
「お決まりの頃、またお伺いしますねチェキラー!」
チェキラーは言わないまでもそんなカンジです。
どう見ても都会育ちを漂わす雰囲気は、自分を美人だと思って生きている私のもっとも苦手なタイプの美人です。
ご家族で経営されているのか、似たような美人がもう1人いてモデルのような歩き方でほかのお客さまをもてなしています。
注文をし、食事が届くまでの間が長いのはあまり好きではありません。
隣に座った同世代のカップルは、どうやら温泉街を散策する模様で、ガイドマップを開きながら予習中のようです。
ガイドマップを持っていない私は、スマホを頼りに日帰り温泉を探そうかとも考えましたが、温泉郷と名のつく温泉街ならドコも一緒だろうと食事代を支払いながらさっきのお姉さんに聞いてみると、台風だか豪雨だかの影響で坂道沿いに建つ多くの温泉宿が被害に会い、開店休業状態のところも多いとか。
施設も古いためにそのまま営業をやめてしまったところもあるようで、影響を受けなかった下部温泉ホテルなんかいいんじゃない?ドンミスイット!みたいに紹介されたので、リーズナブルで時間制限もないというそのホテルへ行ってみる事にしました。
全長1キロあるかないかの温泉街で、営業中かどうかは別として、ネットで見たような風景は、少々淋しげながらやはり趣があります。
人影もまばらで熱海や箱根とは全く違う独特感は、ぶらりと立ち寄ってみるのも面白いのかも知れません。
2時間ほど温泉に入らせていただきましたが、私1人の貸切風呂でした。
浴槽はふたつあり、露天風呂も3つありました。
どれが何の風呂かの説明がないので、どの風呂を選べばいいかがわかりませんでしたが、貧乏性の私は全部の風呂に一通り浸かってゆっくりさせていただきました。
すっかりほてったカラダでロビーに出ていくと「敷地内から泉質のイイ温泉が湧いているんです」と自慢の硫黄泉を黒服の偉い人らしき人が教えてくれました。
聞けば、湯温が違うだけで、どの風呂も同じ泉質である事もわかりました。
派手さもなく、観光地と呼ぶにはもうひとつのような気がしますが、静かな田舎町の温泉で日頃の騒音から解き放たれるわずかな時間を楽しめる歳になりました。
「ハイティーンブギ(マッチ)」の歌詞を思い出す頃にはたぶん健康な顔色とは言い難い状況だったに違いありませんが、「スニーカーぶる~す(マッチ)」を口ずさみ、「ヨコハマチーク(マッチ)」を思い出した頃には、もはや第何波の潮騒なのかは既にどうでもよく、こんなことならマッチのベストアルバムを買っときゃ良かったと、自身の準備不足を呪います。
「ゆれてハラハラな~やんで」とNight & Dayをうまくひっかけた「情熱☆熱風せれなーで」の歌詞に感心しつつ、もっと大腸が長ければとか、それじゃシッポじゃねぇか!だとか、指先から出せたら便利なのに!とか決して便意がアタマから離れる事はなく、ドライブの際には「アテント」の装着をマジメに考える年頃です。
ほぼうつろな状態で「下部温泉駅」にたどりつき、駆け込んだトイレでギリギリセーフを確認し、ウッスラ涙を浮かべホッとしながらふと見た目の前の貼り紙には「トイレットペーパー以外は流さないでください」と書かれていました。
いやいや決壊したてのたっぷりの土石流は・・・?
ワケありで、わざわざこの駅まで来て、トイレットペーパーだけを流してナニが楽しいのか?と、疲れきった脳みそで考えてみますが、そこは「清水のペーパーナイフ」と呼ばれ、泣く子も笑う不良少年だった私は、悪い顔をしながら全部流してやりました。
ちなみに缶ジュースに「開缶後はすぐにお飲みください」と書かれている場合は、すぐに飲み切る一面も持ち合わせています。
と、そんなプチエピソードはともあれ、ネットで見つけた下部温泉郷に来てみました。
清水からは1時間半程度でしょうか。
車屋ケンチャンも「下部はイイらしい・・・」と、温泉好きの友人から聞きかじった情報を受け売りしていましたので、背中を押された恰好です。
いつもならそのまま国道52号線を北上してしまって富士川の向こう側を通る事などありませんでしたから、まさかそんなところに温泉街?とネットの写真を見る限り昔ながらの温泉宿が立ち並ぶ風景に密かにワクワクしていました。
それならオナカが痛くなくても前日から正露丸を飲んどきゃ良かったのですが、1時間半ほどの道程をナメ切っていました。
山道にコンビニがいくつかあることだって、考えてみればアテントを装着しなくても、タバコやジュースを買うためだけに存在しているわけではない事はわかることです。
スッキリしたし、とりあえず昼メシ!と、クルマをトイレの前に停めたまま、周辺の食堂を覗き込みますが、どちらも老舗過ぎて不安がよぎるタイプの店で、店先のショーケースの中のロウで作ったサンプルもとても新鮮には見えず、蕎麦に至ってはトンコツ並みにギトギトのスープでは食欲も失せてしまいます。
道から少し入ったあたりにカフェ風のお店がありました。
見渡すところ選択肢も多そうではないので、消去法により決定します。
ちょっとオシャレな店構えは、財布の中身と要相談ですが、シェフらしき人が大きな鉄板でステーキを焼いていれば場違いなカンジは否めません。
かなり隅っこの小さなテーブルを選び、すまなそうに座ってみると、英語混じりで音楽を紹介する湘南あたりのFMラジオのお姉さんのようなしゃべり方をする店員さんがメニューとお水をもって現れました。
「お決まりの頃、またお伺いしますねチェキラー!」
チェキラーは言わないまでもそんなカンジです。
どう見ても都会育ちを漂わす雰囲気は、自分を美人だと思って生きている私のもっとも苦手なタイプの美人です。
ご家族で経営されているのか、似たような美人がもう1人いてモデルのような歩き方でほかのお客さまをもてなしています。
注文をし、食事が届くまでの間が長いのはあまり好きではありません。
隣に座った同世代のカップルは、どうやら温泉街を散策する模様で、ガイドマップを開きながら予習中のようです。
ガイドマップを持っていない私は、スマホを頼りに日帰り温泉を探そうかとも考えましたが、温泉郷と名のつく温泉街ならドコも一緒だろうと食事代を支払いながらさっきのお姉さんに聞いてみると、台風だか豪雨だかの影響で坂道沿いに建つ多くの温泉宿が被害に会い、開店休業状態のところも多いとか。
施設も古いためにそのまま営業をやめてしまったところもあるようで、影響を受けなかった下部温泉ホテルなんかいいんじゃない?ドンミスイット!みたいに紹介されたので、リーズナブルで時間制限もないというそのホテルへ行ってみる事にしました。
全長1キロあるかないかの温泉街で、営業中かどうかは別として、ネットで見たような風景は、少々淋しげながらやはり趣があります。
人影もまばらで熱海や箱根とは全く違う独特感は、ぶらりと立ち寄ってみるのも面白いのかも知れません。
2時間ほど温泉に入らせていただきましたが、私1人の貸切風呂でした。
浴槽はふたつあり、露天風呂も3つありました。
どれが何の風呂かの説明がないので、どの風呂を選べばいいかがわかりませんでしたが、貧乏性の私は全部の風呂に一通り浸かってゆっくりさせていただきました。
すっかりほてったカラダでロビーに出ていくと「敷地内から泉質のイイ温泉が湧いているんです」と自慢の硫黄泉を黒服の偉い人らしき人が教えてくれました。
聞けば、湯温が違うだけで、どの風呂も同じ泉質である事もわかりました。
派手さもなく、観光地と呼ぶにはもうひとつのような気がしますが、静かな田舎町の温泉で日頃の騒音から解き放たれるわずかな時間を楽しめる歳になりました。
2015年08月02日
オチチ
火がついたように激しく高ぶる潮の満ち引きに、月明かりにあらわになった白い乳房にむさぼりつき、果てた満足を感じながら静かな眠りにつく・・・。
この子の健やかな成長を願う・・・。
ネットという環境を使えばヤバいクスリだろうが、そんなキモチを抱いてはイケナイ少女達との出会いや快楽さえ手に入る時代。
探し回らなくても、「品切れです」とわざわざ取り寄せていただかなくても、クリックひとつで明日には手元に本が届いちゃうとなれば、ウチの近くの大きな本屋が閉店してずいぶん久しいのも納得できます。
独特のインクのニオイの中でアレコレと立ち読みする情緒と引き換えに、一歩も動く事なく欲しい本が手に入っちゃうなら、ついつい私も便利を選んでしまっています。
ナンでも手に入るインターネットは確かに便利で合理的。
しかし、呑んだ暮れて一日を終わる私には想像もつかないようなものまで売買されている事に気づけば、貪欲なまでの需要と供給に、いかに私の人生が上っ面だけの薄っぺらいものかと酔いもブッ飛びます。
「体液」のような成分は検出されたものの、同時に大量の雑菌も検出され「母乳」の購入は慎重に・・・だったか、注意が必要・・・だったか「ボ・ボニュー!?」と耳を疑う報道がされていました。
瞬時にヒラメいたのは、そうゆぅ世界のマニアの皆さんで、「チチ離れ」ができていないのか、それをクチに含む事で若き日のあの頃の事を思い出しているんだろうか、はたまたその昔、アサイチのオシッコを飲む人達のような健康法か・・・?
私ごときに思い浮かぶのはせいぜいそんなところなんですが、聞き進めれば話しはもっと深刻で、実際に「母乳」を必要としている人達がいるとのことでした。
赤ちゃんを授かり産んでみたものの、「母乳」を思うように赤ちゃんに与える事ができないお母さん達にとっては切実な問題で、赤ちゃんの健やかな成長を願うあまりワラにもスガる思いで、そんなやり取りが成立しているんだトカ・・・。
冷やかし半分で報道を見ていた私は、ちょっと複雑な思いを感じました。
確かにお母さんにとって授乳をする事の幸せは、オトコの私には想像すらできませんが、赤ちゃんにとっても教えられてもいない本能で吸い付いた乳首から、ナニも出てこない現実に気づく事もなく、本能のおもむくままに元気に吸い付いてくる姿を想像してみれば、お母さんばかりでなく、もしかしたらお父さんだって「ワラ」を探してみたいキモチになってしまうのかも知れません。
「インターネット」に向かい合う発想は私にはありませんでしたし、例え深刻で切実だったとしても「他人」の「母乳」に頼るだろうか?と感じてしまいました。
その上で、取り引きされていた「母乳」が「マガイモノ・・・」みたいな報道であれば許される話しではありませんが、どういう暮らしをしていたら「マガイモノ」であっても母乳を売っちゃお!的な発想が生まれるのかも不思議です。
ニーズを悪用するセンスがあればこそ「荒稼ぎ」もできるんでしょうが、「マガイモノ」である事を知らずに、ネットで買った母乳を赤ちゃんに与えているパパママのキモチもまた私の理解を超えた不思議な世界です。
その昔は「母乳」のデが悪ければ、近所のお母さんの「母乳」を直接乳首から分けてもらった・・・なんて話しを聞いた事がありますが、私のムスメたちの時代には現実にそうする事はなかったはずです。
ムスメのママも一時期、母乳のデが悪い・・・と悩んでいた事があります。
もちろん、ムスメたちがオッパイを必要としていた時期の話しですが(聞いた事はありませんが、今は母乳のデを気にしていないはずです)、粉ミルクだって栄養たっぷりの上等なものがある時代に、彼女の悩みはそういうことではなかったようで、それこそワラにもスガる思いでいろんな人達のアドバイスに耳を傾けていました。
ネットなんてありませんから、大先輩や同世代のママ達なんかにいろいろ教えてもらっていたんだと思います。
漢方薬なんかも飲んでたかなぁ・・・。
ダメな私にとっては「どうでもいいこと・・・」だったのか、彼女の思いも汲み取ってやる事なく呑気に暮らしていたんでしょう。
どういうイキサツでそうなったのか、それも覚えていませんが、乳のデを良くする有名なマッサージ師がいると聞き付けて何度か送り迎えをした記憶があります。
「誰かに揉んでもらって出るようになるなら、オレがたっぷり揉んでやる」と、オカネを出してホカの誰かに揉んでもらう事に批判的だった私ですが、彼女の真剣な熱意に負けたのか、送り迎えを確かにしました。
話しがナーバス過ぎて「よく出てるか?」とか興味本位で聞く事もなかったはずですが、その甲斐あってかムスメたちは大病を患う事もなく元気に育ちました。
胸に抱いた我が子にオチチをあげることがママさんたちの幸せなんだとしたら、そうできないママさん達の悲しみや苦しみは救われるべきなのかも知れません。
しかし、聞いてみれば出産間もなくの母乳には免疫力を高めたり、もちろん栄養が含まれたりしつつも、数日間だったか、数週間だったか、それ以降の母乳には一定程度の栄養分は含まれるものの、粉ミルクなどの代替乳でも充分成長を促す事ができるようなんです。
オチチをやる行為はむしろ親子間のスキンシップの意味合いの方が大きいなんて言っている人もいるようです。
赤ちゃんとオッパイは切っても切れない関係に、短絡的とは言えないまでも「ネットで購入」という発想が生まれる時代に切なさというか、ナニかスッキリとしないキモチになるエピソードでした。
そういえば最近、「おしゃぶり」をくわえている乳児を見なくなりました。
ネットで「おしゃぶり」と検索してみると、さぞエッチなサイトがヒットするのかと思いきや、そこはマジメに「乳首型育児用品」が並んでいて、「舌や顎の発達を助けて鼻呼吸を促す」なんて理由からむしろ利用者は増加傾向にあるんだとか。。。
「牛乳は子牛の飲み物」と譲らないクリちゃんを久々に呑みに誘ってみます。
ぇ?あのオトコ。。。母乳買ってる?
この子の健やかな成長を願う・・・。
ネットという環境を使えばヤバいクスリだろうが、そんなキモチを抱いてはイケナイ少女達との出会いや快楽さえ手に入る時代。
探し回らなくても、「品切れです」とわざわざ取り寄せていただかなくても、クリックひとつで明日には手元に本が届いちゃうとなれば、ウチの近くの大きな本屋が閉店してずいぶん久しいのも納得できます。
独特のインクのニオイの中でアレコレと立ち読みする情緒と引き換えに、一歩も動く事なく欲しい本が手に入っちゃうなら、ついつい私も便利を選んでしまっています。
ナンでも手に入るインターネットは確かに便利で合理的。
しかし、呑んだ暮れて一日を終わる私には想像もつかないようなものまで売買されている事に気づけば、貪欲なまでの需要と供給に、いかに私の人生が上っ面だけの薄っぺらいものかと酔いもブッ飛びます。
「体液」のような成分は検出されたものの、同時に大量の雑菌も検出され「母乳」の購入は慎重に・・・だったか、注意が必要・・・だったか「ボ・ボニュー!?」と耳を疑う報道がされていました。
瞬時にヒラメいたのは、そうゆぅ世界のマニアの皆さんで、「チチ離れ」ができていないのか、それをクチに含む事で若き日のあの頃の事を思い出しているんだろうか、はたまたその昔、アサイチのオシッコを飲む人達のような健康法か・・・?
私ごときに思い浮かぶのはせいぜいそんなところなんですが、聞き進めれば話しはもっと深刻で、実際に「母乳」を必要としている人達がいるとのことでした。
赤ちゃんを授かり産んでみたものの、「母乳」を思うように赤ちゃんに与える事ができないお母さん達にとっては切実な問題で、赤ちゃんの健やかな成長を願うあまりワラにもスガる思いで、そんなやり取りが成立しているんだトカ・・・。
冷やかし半分で報道を見ていた私は、ちょっと複雑な思いを感じました。
確かにお母さんにとって授乳をする事の幸せは、オトコの私には想像すらできませんが、赤ちゃんにとっても教えられてもいない本能で吸い付いた乳首から、ナニも出てこない現実に気づく事もなく、本能のおもむくままに元気に吸い付いてくる姿を想像してみれば、お母さんばかりでなく、もしかしたらお父さんだって「ワラ」を探してみたいキモチになってしまうのかも知れません。
「インターネット」に向かい合う発想は私にはありませんでしたし、例え深刻で切実だったとしても「他人」の「母乳」に頼るだろうか?と感じてしまいました。
その上で、取り引きされていた「母乳」が「マガイモノ・・・」みたいな報道であれば許される話しではありませんが、どういう暮らしをしていたら「マガイモノ」であっても母乳を売っちゃお!的な発想が生まれるのかも不思議です。
ニーズを悪用するセンスがあればこそ「荒稼ぎ」もできるんでしょうが、「マガイモノ」である事を知らずに、ネットで買った母乳を赤ちゃんに与えているパパママのキモチもまた私の理解を超えた不思議な世界です。
その昔は「母乳」のデが悪ければ、近所のお母さんの「母乳」を直接乳首から分けてもらった・・・なんて話しを聞いた事がありますが、私のムスメたちの時代には現実にそうする事はなかったはずです。
ムスメのママも一時期、母乳のデが悪い・・・と悩んでいた事があります。
もちろん、ムスメたちがオッパイを必要としていた時期の話しですが(聞いた事はありませんが、今は母乳のデを気にしていないはずです)、粉ミルクだって栄養たっぷりの上等なものがある時代に、彼女の悩みはそういうことではなかったようで、それこそワラにもスガる思いでいろんな人達のアドバイスに耳を傾けていました。
ネットなんてありませんから、大先輩や同世代のママ達なんかにいろいろ教えてもらっていたんだと思います。
漢方薬なんかも飲んでたかなぁ・・・。
ダメな私にとっては「どうでもいいこと・・・」だったのか、彼女の思いも汲み取ってやる事なく呑気に暮らしていたんでしょう。
どういうイキサツでそうなったのか、それも覚えていませんが、乳のデを良くする有名なマッサージ師がいると聞き付けて何度か送り迎えをした記憶があります。
「誰かに揉んでもらって出るようになるなら、オレがたっぷり揉んでやる」と、オカネを出してホカの誰かに揉んでもらう事に批判的だった私ですが、彼女の真剣な熱意に負けたのか、送り迎えを確かにしました。
話しがナーバス過ぎて「よく出てるか?」とか興味本位で聞く事もなかったはずですが、その甲斐あってかムスメたちは大病を患う事もなく元気に育ちました。
胸に抱いた我が子にオチチをあげることがママさんたちの幸せなんだとしたら、そうできないママさん達の悲しみや苦しみは救われるべきなのかも知れません。
しかし、聞いてみれば出産間もなくの母乳には免疫力を高めたり、もちろん栄養が含まれたりしつつも、数日間だったか、数週間だったか、それ以降の母乳には一定程度の栄養分は含まれるものの、粉ミルクなどの代替乳でも充分成長を促す事ができるようなんです。
オチチをやる行為はむしろ親子間のスキンシップの意味合いの方が大きいなんて言っている人もいるようです。
赤ちゃんとオッパイは切っても切れない関係に、短絡的とは言えないまでも「ネットで購入」という発想が生まれる時代に切なさというか、ナニかスッキリとしないキモチになるエピソードでした。
そういえば最近、「おしゃぶり」をくわえている乳児を見なくなりました。
ネットで「おしゃぶり」と検索してみると、さぞエッチなサイトがヒットするのかと思いきや、そこはマジメに「乳首型育児用品」が並んでいて、「舌や顎の発達を助けて鼻呼吸を促す」なんて理由からむしろ利用者は増加傾向にあるんだとか。。。
「牛乳は子牛の飲み物」と譲らないクリちゃんを久々に呑みに誘ってみます。
ぇ?あのオトコ。。。母乳買ってる?